そろそろ、本格的に汗ばむ季節となってきました。
衣替えも終わり、夏に向かっての準備が始まる頃です(いやいや、もうすっかりその気になってるし)。
夏に食べたくなる料理といえば、やはり喉越しも爽やかで、体の熱を下げてくれるような料理ですね。
夏野菜がリスト入りするのは当然として、新鮮な海産物に、何と言ってもそうめんやそばなどの麺類です。
冷やし中華に冷やしつけ麺なども喜ばれますが、こちら東京ではそばが一番人気です。
そのそばですが、あなたはどんな食べ方がお好きですか?
今回は、夏に食べたいそばについて、面白おかしく語りたいと思います。
目次
そばの歴史
最近の流行は面白いもので、定年退職された男性の趣味には、必ずと言っていいほど「そば打ち」が入ってきます。
今でこそ、好きなときに蕎麦粉が手に入り、食べたい時に打てるようになりましたが、300年前ともなればそう簡単ではありませんでした。
当時でも、江戸では蕎麦粉は売られていて、庶民の大切な食の一つでした。
しかし、都から少し離れた地方では、そばを食べたければ蕎麦の苗を育てて収穫を待ち、それから粉に挽いて打たねばなリませんでした。
実に、そばを食べるにも一年待たなければならなかったわけです(貯蔵庫があり蓄えることが出来れば話は別です)。
鎌倉時代に石臼が伝来されるまでは、それほどの需要はありませんでした(食べ方を知らなかったというべきでしょうか)。
勿論、麺としてのそばなどあろうはずもなく、ポピュラーな食べ方は、そばがき、すいとん、そば饅頭にそば団子といったところでした。
それが戦国時代に入るなり、途端に人気の食べ物に早変わりします。
そして、江戸期には庶民の認知を得て、見事な蕎麦文化を開花させることになりました。
今のように細くて長い形状になったのは戦国時代以降ですが、それまでにも「そばきり」はありました。
そばきりとは
そもそも、そばきりとは、水を加えて練った蕎麦粉を、平たく伸ばして切る行為を指しています。
戦国時代のそれは、必ずしも今のそばのように洗練されてはおらず、形も歪で太さも長さもまちまちだったのかもしれません。
はたして、包丁で切っていたのかも分からず、けっこう謎が残っています。
やがて、商売としてそばが振る舞われるようになると、太さや長さなど、見た目にも食欲をそそる形状が考え出されたのではないでしょうか。
日本全国津々浦々、そばの産地は少なくありませんが、そのどこを当たってもそばの形は均一ではありません。
そこから推測するに、そばきりは、より多くの人に楽しんで食べられるように追求された形であり、ひょっとすると他の形状になっていてもおかしくはなかったかもしれないのです。
しかし、特に風味と喉越しの良さを売りとする以上は、極力細く滑らかに、それこそ「つるっ」と飲み込めてしまうようなフォルムにする必要があったのです。
いずれにせよ、江戸の時代から日本人が練磨に練磨を重ねて編み出したそばきり(そばの旨さを司る技術)は、今後も長きに渡って大切に伝承されるべき伝統です。
ざるそばともりそば
上でお話したそばきりですが、人によっては蕎麦の調理方法ではなく、そばの種類を言う時もあります。
丼に入れて食べる汁そば(ぶっかけそば)に対して、そばつゆに浸けていただくつけそば(もりそば)がそれに当たります。
そして、そのつけそばにも東西を二分するような種類があり、方やざるそば、もう片方をもりそばとして知られています。
この二つのそばですが、極論を言えば、食べ方には何ら違いはありません。
どちらもつけそばであり、麺をそばつゆに浸して食すところは同じです。
ではなぜ、この21世紀になっても、その違いについて語られるのでしょうか?
論争といえば大事のようですが、実際にはこだわる人の方が多いくらいです。
ざるそばは、その名称からも分かる通り、ざるに盛られて出されます。
ではもりそばはというと、これもざるや皿に盛られて出されます。
どちらも盛りそばなら、どちらもざるそばになりそうですが、つうによると何やら大きな違いがあるそうです。
特にざるそばは、つゆに少量の調味料(みりんを加えた)を入れ、味も少々濃くすることで、もりそばのつゆと区別したそうです。
そばの上に刻み海苔を加えるのもざるそばの特徴らしいですが、蕎麦の風味に煩い連中には好まれていないようです。
さらには、蕎麦の品質に違いを持たせる店もあるようですが、商売の効率を考えればまずありえないと察します。
うな丼の伝承と同じように、何やら明確ではない言い伝えが残っているのもそばの面白さです。
ぶっかけそば(汁そば)の発祥は、いちいちつけ汁に浸けて食べるのが面倒な人達が、そばと汁を混ぜて食べたことからできたと言われています。
ざるはそのものざるに入れたからであり、もりは皿に高く盛ったことからその名が付いたそうです。
ぶっかけそばを、ただの「かけ」と称したのも江戸の頃でした。
本来、「かけそば」とは、具を一切入れないそばを言います(素うどんと同じ)。
寛延四年刊の「蕎麦全書」というご大層な文献があり、その中にも明記されています。
とりあえず、ざるそばともりそばの論争(?)は、今後も引き継がれる模様です。
その昔、屋台はラーメンの専売特許ではなかった!
屋台と聞くと、ラーメンかおでんと相場は決まっています(他にもたくさんありますが、ここでは省略)。
しかし、江戸の町で屋台といえば、何を置いてもそば屋の屋台が思い浮かびます。
「親ばかチャンリン、そば屋の風鈴」などとも申しますが、これも昔の屋台にまつわるお話でした。
江戸の町には様々な行商がおり、中にはいかがわしい商売(衛生的に)をしていた輩もいたようです。
夜鷹とは、今で言うところの春を売り物にしている方々のことで、八百八町に日が落ちる頃になると街角に立っていました。
本物の夜鷹が聞けば気を悪くするところでしょうが、この夜鷹の名を使ってそばを提供する商人もいたようです。
しかしながら、この夜鷹そばは衛生面で難があり、深刻な社会問題になりました。
しかも、出されるそばはかけそばだけで、味もそれほど良くはなかったらしいです。
そんな夜鷹そばに対抗すべく、味で勝負のおそば屋さんがおりました。
彼らは夜鷹そばと一線を画すために、屋台の四隅に風鈴を付けて商売をしました。
要するに、「こちらが本物のそば屋ですよ!」と、市街の人にアピールしたわけです。
ただ、この風鈴、もともとは夏の風物詩であり、冬場には似合わないアイテムです。
それを木枯らし吹きすさぶ江戸の市中で、他人の目など気にせずに風鈴を鳴らしながらそばを売り歩く屋台の姿と、子供には形振り構わぬ親の姿とを重ね合わせて揶揄った言葉が、「親ばかチャンリン、そば屋の風鈴」となったわけです。
今でも、町のいたるところで屋台を見かけますが、人が押したり担いだりするのではなく、ワンボックスカーにキッチンが付いてお目見えします。
江戸時代の屋台にも様々な工夫があったと見られ、風鈴だけではなく面白い仕掛けが施してありました。
とまあ、今でこそ日本そばの屋台は見かけませんが、その当時では屋台といえばそばが一般的だったようですね。
最後に
そばは、日本人のソウルフードと言っても過言ではないでしょう。
落語のネタとしても、時そばやそば清、それにそばの殿様は有名です。
暑い夏には、冷えたざる(もり)そばを啜るのが心地よいです。
そんな人々の生活に密着しているそばですが、残念なことにアレルギーで食べられない人もいます。
蕎麦に含まれるタンパク質が原因とされていますが、そばを食べなくても蕎麦を使った道具(例えば蕎麦殻の枕など)に触れるだけでもなるようです。
特に、蕎麦によるアナフィラキシー反応を発すると、命が危険に晒される可能性もあります。
不幸にも、この蕎麦アレルギーに対する有効な治療法はまだ見つかっていません。
蕎麦に近づかないことが、唯一の回避策と言えます。
とまあ、悲しい側面も持つそばですが、アレルギーのない人は大いに堪能して欲しいところです。
乾麺でもなかなか味の良いそばもありますが、できれば本格的なそば屋のそばを楽しみたいものです。
この夏は、町で一番お気に入りの、あなただけの蕎麦屋を探してみるのも面白そうですね。